法華寺十一面観音~滅罪の仏

理想の女人の姿

「法華寺」は正式には「法華滅罪之寺」が正式名称で、その信仰の中心にあるのが光明皇后の姿を写したと言い伝えられている十一面観音です。
ただし、様式的には明らかに光明皇后が生きた天平時代のものとは異なります。

「古典的均衡」という言葉を使っていいのかどうかは分かりませんが、天平の仏にはその言葉がピッタリと来ます。
それと比べればこの十一面観音は明らかに「異形」です。

法華寺十一面観音 異常に長い右手が印象的

膝から下がやや短めで全体の均衡を崩していますし、何よりも膝にまで届く長い右手は普通に考えればあり得ないバランスです。

しかしながら、そう言うアンバランスとアンバランスが組み合わさることで、静的な均衡に美を求めていた天平とは異なる美が実現していることに気づかされます。
それは、ほんの少し軽く衣をつかむ右手の指の動きと、ほんの少し重心のかかった右足の歩み出そうとする親指の動きによって、見る者の方に向かって動き出そうという気配が感じられるのです。

そして、その幽かにこちらに向かってこようとする気配には何とも言えない艶めかしさが漂っているのです。

仏に艶めかしいというのは怪しからぬ話なのですが、それでもここには当時の理想的な女人の姿を実現しようという「思い」があからさまに伝わってきます。

ただし、この十一面観音をよくよく見てみれば髭が書き込まれています。

かすかに髭が書き込まれています

仏の姿というのはお経によって細かく決まりが定められているそうで、この髭も仏にはなくてはならないものだそうです。ですから、これはアイドルのフィギアではなくて仏様なのですから、仏師もきっと泣く泣く顔に髭を書いたのでしょう。
そうなると、果たしてこの髭、作られた当初はどれくらいはっきりと書き込まれていたのか興味があります。

今は有り難いことに、よほど近くによって目をこらさないとその髭は確認できないので、ほとんど女人しか見えません。しかし、遠目から見ても髭が確認できるほどしっかりと書き込まれていれば印象は随分と変わるはずです。

ただし、ほぼ同時代の仏である歓心寺の如意輪観音には髭はありません。
あそこでは、もう仏の決まりなどというものはどこかに蹴飛ばされて、ひたすら理想の女人像が追求されています。
ですから、これほど美しい観音を作ったのならば、蹴飛ばせなかったとしても、最初からもごく幽かにしか書き込まれていなかったと想像します。

傷ついた聖母

しかし私がふと気になったのが「滅罪」という言葉です。
法華寺は尼寺ですから、勝手な思いこみかもしれませんが、女性ゆえに抱え込まざるを得なかった多くの「罪」をこのお寺で修行して浄化していくというイメージを持たざるを得ませんでした。

その言葉からは、男よりも女の方が多くの「罪」を抱えていると言う女性差別の思想が臭ってきます。
確かに、仏教の根底には女は男よりも罪深いという女性に対する差別思想が根強く巣くっていました。

しかし、この「法華滅罪」というのは、鎮護国家のために「天皇の罪を滅罪」するという意味だそうです。総国分尼寺としての法華寺に求められたのは国家のための「滅罪」であり、その「滅罪」の祈りは時代が下るにつれて衆生の「滅罪」へと軸足が移っていったのです。

とはいえ、「横笛堂」や恋文の反故紙で作られたという「横笛像」を見ていると、その「滅罪」が女性の方に軸足がかかっていたことは事実のようです。
横笛の悲恋物語は既に高野山の町石関連でふれていますので繰り返しませんが、興味のある方は「高野山町石道(4) 横笛の悲恋物語」をご覧ください。

そう言う法華寺の立ち位置を考えれば、この本尊である十一面観音は「聖母」的な存在なのかもしれません。

ただし、この「聖母」はどこか憂鬱そうな面差しをしています。
法華寺の十一面観音は室生寺の十一面観音と較べれば、大人の女性として成熟しています。それ故に、夢は醒めつつも拗ねるのではなくて悲しみを憂鬱の中に押しとどめています。
もちろん、私は拗ねている室生寺の十一面観音も大好きではあるのですが。

もはや天平の持つ無邪気さや古典的な均衡は過去のものになってしまっているのです。

そう言えば、中島みゆきに「女なんてものに」という歌がありました。

「女なんてものには本当の心はない」とか、「女なんてものには心にもないことを平気で言う」とか、「女なんて奴の涙は売り物だ」と女に裏切られた男が嘯きます。
こんな奴いますね。(^^;

法華寺の十一面観音と向き合っていて、ふとこの歌が蘇ってきたのです。
そして、この「女」を「仏」に入れ替えると、神も仏もないと嘆く人の虚無感が迫ってくるような思いがしてきたのです。

そんな傷ついた人と向き合い続けることで、仏もまた傷ついているのです。
それでも、仏はそう言う人を「哀しい」と言ってくれます。

女(仏)なんてものは心にもないことを
平気で言うと人を諭してる
あなたが哀しい

そして、その聖母は私たちが虚無感の中で背中を向けても、いつも遠くで見詰めてくれる存在でいてほしいと甘えてしまうのです。
それは虚無感にさいなまれた人間の身勝手な願いかもしれないのですが、それでもその聖母は遠くで見つめ続けてくれる存在として映るのです。

室生寺の十一面観音ならば、そんな身勝手に「貴方もちょっとはがんばんなさいよ」と背中を向けられるかもしれないのですが、法華寺の観音ならば「法華滅罪」の仏として見つめ続けてくれそうな気がするのです。

そして、おそらくは、そう言う存在としての観音信仰が一般庶民の中に根付いていったのでしょう。
日本にキリスト教が伝わってきて、それが弾圧によってヨーロッパから切り離された後に、隠れキリシタン達は聖母と観音が混ざり合った「マリア観音」を生み出します。
それは、観音とはまさにその様な「聖母」的な存在であったからでしょう。

春と秋だけ特別公開される

法華寺本堂 ここに11面観音はおさめられている

なお、この十一面観音は春と秋の二回だけ一般公開されています。それ以外の時期は厨子の中に収まっていて、お前立ちの像が身代わりを務めています。
その限られた時期にわざわざ出向いてお会いするだけの価値はある仏様です。

ただし、堂内は意外と暗くて、さらに厨子におさめられている十一面観音はさらに暗いので、目が慣れてくるまでは少しがっかりします。
出来れば、その前にゆっくりと腰を下ろして対面するのが望ましいと思われます。

高さは1メートル程度と言うことは知識としては知っていたのですが、実際にお姿を拝見すると想像以上に小さいという感じがします。
しかし、座って見上げれば、どんな写真で見るよりもはるかに優美な姿をしています。もしかしたら写真ではもっとも美しさが伝わりにくい仏の最右翼かもしれません。


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One comment

  • ほんのむし

    単に仏像が安置されているのを、すぐれた芸術品として見るのもよいのですが、本来偶像を持たず無我とか空を教義の本質とする仏教における仏像とは、直接的に会うことのできない仏陀やそれに準ずる菩薩に出会って、無我や空、慈悲といった教えを受け、誓いを立てるための「儀式」に使用されるものです。ですから、そこには礼拝、招来といった儀礼、経文、願文の読誦が含まれた「総合芸術」があるのです。例えば(僕は好きではないですが)、ワーグナーの楽劇を、演劇の側面を切り捨て、演奏会方式でやったとして、それで理解できたといえるでしょうか。そういう儀礼が理解されていないのは残念。もっともそういう深い空や慈悲に出会ってしまうと、惚れた腫れただの、個人的な希望と絶望に特化している西洋芸術は、ほとんど共感できなくなってしまいますが。

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