町石道について~抜き取られた町石事件?(3)

、世の人々はどのように思うか~やはり泰盛は無罪

既に詳しくふれてきたように、安達泰盛こそはこの町石プロジェクトの立役者とも言うべき人物です。
幕府の有力御家人や朝廷の有力貴族、さらにはその様な有力者につながる富貴の人々に勧進して回ったのが泰盛です。この泰盛の働きがなければこのプロジェクトの完成はあり得ませんでした。

安達泰盛

だとすれば、その勧進の中心にあった人物が、既に建立されている町石を抜き取って自分の一族を供養するための町石を建てたとすれば、世の人々はどのように思うでしょうか。
もしも、鎌倉みたいな時代であれば、権力を持っている人間はどんな事でも好き勝手に出来ただろうと思うならば、それは大きな間違いです。

何故ならば、蒙古襲来という国難に直面することで、鎌倉幕府はその姿を大きく変えようとしていたからです。
いや、その変化は1268年にフビライからの国書が届く前から始まろうとしていました。

そのもっともよい例が北条重時です。
重時は鎌倉幕府の土台を築いた北条泰時の弟なのですが、泰時が亡くなってからは幕府のナンバー2として代々の執権を支えた人物です。

その重時は二つの家訓を残しています。

そのどちらも、細かい内容をたくさん含んだ長々とした文書なのですが、その教えの根幹を貫いているのは世間的な評価をよく考慮して、他人から悪くとられることのないように配慮せよという一事でした。
そして、重時はその様な教えの具体化として、御家人の利益代表者としての幕府から、より幅広い人々の利益も守っていく幕府へと方向転換を行ったのです。

鎌倉幕府は武士による政権と言われるので、「武士=御家人」と思われがちなのですが、それは違います。御家人というのは、武士の中でも特権的な地位を持っている一握りの存在であり、そう言う特権的な地位を持っていない非御家人である武士の方が多数だったのです。
そして、鎌倉幕府というのは「頼朝」と「御恩と奉公」という特別な主従関係を結ぶ事で特別な存在となった「御家人」の利益代表としてスタートしたのです。

この鎌倉幕府の立ち位置を変える端緒を作ったのが重時であり、それ故に彼は神経質なまでに世間的な評価に配慮することを言い残したのです。
そして、この幕府の基本的な立ち位置を変えていく流れを本格的に受け継いだのが安達泰盛でした。

鎌倉幕府の立ち位置の転換

この幕府の立ち位置の転換は蒙古襲来という国難によってより加速します。
何故ならば、それは御家人という武力集団だけで対処できる出来事ではなかったからです。

この時、幕府ははじめて地頭を置かない荘園領主にも異国警護の動員を命令し、それに対して非御家人の武士達もこたえたのでした。そして、その様な挙国一致の体制で戦えたので、蒙古が本気で攻撃してきた弘安の役も何とか持ちこたえることが出来たのです。

しかし、その事は同時に、鎌倉幕府が一握りの御家人の利益代表という立ち位置では成り立たなくなった事を意味しました。
もちろん、その事は逆から見れば、今までは影響力が及ばなかった非御家人の武士達にも影響が及ぶようになったのですから、それはそのまま幕府権力の強化に結びつきました。しかし、それは同時に内部に多くの軋轢と矛盾を抱え込むことにもなったのです。

そして、この幕府の方向転換を担ったのが安達泰盛だったのです。
1284年、蒙古との戦いに全ての力を使い果たしたように執権時宗がこの世を去ると、泰盛は38条からなる法令、いわゆる「弘安徳政」を実施します。

鎌倉時代の「徳政令」と言えば借金の踏み倒しと同義語のようにとらえられているのですが、それは違います。
この「徳政」は一言で言えば、鎌倉幕府が御家人の利益だけを代表する組織から、蒙古との戦いに協力したより幅広い勢力の利益も考慮する組織へと転換させようとしたものでした。

そして、この政策転換は蒙古との戦いを経た鎌倉幕府にとっては一つの必然でした。何故ならば、幕府が発する法令や命令は、お友達の御家人だけでなく寺社や荘園の領主達にも大きな影響を与えるようになったからです。
ですから、幕府もいつまでも仲のよいお友達(御家人)達の互助組合的な組織ではいられなくなったのです。

しかしながら、このような方向転換は、特権的利益を享受してきた御家人層からは「裏切り」と感じられたはずです。
そして、その事は泰盛自身も分かっていたはずなのです。

ですから、その様な立場の中で幕府のトップとして政治の中心にいた泰盛が、町石建立ごときの些事で自らの評判を下げるようなことをするはずがないのです。
そして、そう言うことに細心の注意を払っていながらも、結局は町石プロジェクト完成から僅か1月後の霜月騒動で安達一族は亡んでしまうのです。

政策選択の恣意性と必然性

封建的な社会というのは極めて恣意的な政策選択の過程を経て合理的な政策が選び取られるのに対して、近代国家というのは極めて合理的で民主的な政策選択の過程を経て恣意的な政策が選び取られる傾向があります。

不思議な話ですが、農業という自然条件に左右される生産活動が社会の土台にある時代というのは、為政者にとって取り得る政策選択の幅はそれほど大きくありません。何故ならば、自然の営みを人間がコントロールできる幅は極めて小さいからです。
ですから、政策決定の過程がどれほど恣意的であっても下される決定は概ね合理的です。

何故ならば、誤った政策選択はそのまま社会の混乱と崩壊に結びつくからです。

それに対して、社会の土台が自然条件にあまり左右されない工業活動が土台となる近代社会では、為政者として取り得る政策選択の幅は広がります。自然の営みを人がコントロールすることはできなくても、工業活動という人による営みならばある程度はコントロールできるような気がするからです。
ですから、選挙とそれによって構成される議会を通して政策選択が合理的で民主的に行われているように見えても、結局は、幅広い選択肢の中から為政者の恣意によって政策が選び取られます。

第二のフーバー ジョージ・ブッシュ

しかし、そうやって決定された恣意的な政策の成否は容易には明らかになりません。
何故ならば、その政策選択の誤りはすぐには社会の混乱と崩壊に結びつくようなことにはならないからです。

例えば、アメリカのブッシュ(息子)のような無能極まる大統領(彼は第2のフーバーと言われた)であってもアメリカ国民が飢えて死ぬと言うことは起こらなっかたのです。(もう少しで世界恐慌を起こしそうにはなった。)
それは、日本という国においても同様でなのですが、それが近代国家というものの強みでもあるのです。
つまりは、為政者の無能を社会が吸収するのです。

しかし、その無能をいつまでも吸収できるほど社会が強靱でないこともまた事実です。

霜月騒動から平禅門の乱まで

しかし、正しい政策選択をしたにもかかわらず泰盛一族は皆殺しになったではないかと言われるかもしれません。

霜月騒動(1285年)の中心となって安達一族を皆殺しにした首謀者は、北条得宗家の家令であった平頼綱です。
頼綱は安達氏とその同調勢力を一掃することで幕府権力を一手に握るのですが、その絶頂は長く続かず、1292年には執権北条貞時の命で殺されてしまいます。(平禅門の乱)

そして、この「平禅門の乱」の前に鎌倉は大地震に見舞われるのですが、世の人はこの地震で頼綱の屋敷は地中に没して一族は生きながら地獄に堕ちたと噂したのです。

それは、彼の権勢と政治が極めて理不尽な保守反動であり、それを多くの人が拒否することで頼綱を歴史的悪役に仕立て上げたのです。
そして、鎌倉幕府も霜月騒動で滅ぼされた人々の名誉回復を行い、記録の上からもこの頼綱の時代は「なかったこと」にしてしまったのです。

ですから、やはり為政者が取り得る政策選択の幅は決して大きくないのです。
そして、よく言われることですが、権力を持った為政者というものは、常に歴史という法廷に立たされている被告人であることを自覚しなければいけないのです。

泰盛自身は霜月騒動をどのような思いでむかえたのかは想像することも出来ません。
しかし、一つだけ確かなことは、彼の名前は高野山の町石とともに不変の輝きをを持って刻み込まれていると言うことです。


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