町石道について~抜き取られた町石事件?(1)

町石道に建てられた町石は参詣者から目につく正面に施主や町数が刻まれていて、背面には何も刻まれていないのが一般的です。左右には建立時期や供養する人の名前が刻まれているものはありますが、背面は誰の目にも触れないわけですから当然と言えば当然です。
しかし、ごく僅かですが、その刻まれているはずのない背面に何らかの銘文が刻まれている町石があります。

この背面に銘文が刻まれた町石が何を意味するのかについては諸説あります。
それを今回は取り上げてみたいと思います。

168町石と奥の院側25町石

写真では全く分からないのですが(^^;、正面に「比丘尼正智」と施主が刻まれているのですが、背面にも全く同じ「比丘尼正智」と刻まれているのです。

168町石 背面に 「廿五町比丘尼正智」と刻まれている

しかし、施主は同じなのですが、背面の町数は「25町」と刻まれていて、仏様を表す「梵字」も奥の院側の25町に該当する「金剛嬉菩薩」を表す「コク」が刻まれています。

これをどのように解釈するのかなのですが、「初めての高野山町石道入門」の著者である木下浩良氏は、この町石道はもとは奥の院側の25町石として建てられていたものが、何らかの理由で抜き取られて現在の168町石の位置に移動させられたのではないかと推測しています。
そして、抜き取った町石を新しい場所でリサイクルするために、背面にもう一度施主と新しい町数を刻んだのではないかというものです。

それでは、その「何らかの理由」とは何でしょうか?
それを探るためには、この町石がもともと建っていた奥の院側に現在はどのような町石が立っているのかを見てみる必要があると木下氏は指摘します。

奥の院側25町石 杉の木の陰で見落としやすい

奥の院側の25町石は、奥の院側の町石の中ではもっとも見落としやすい場所に立っています。右手の杉の木は大きく育ち、正面には誰かが墓石を建ててしまったので、よほど注意していないと見落としてしまう場所に立っています。
そんな町石なのですが、銘文を見ると正面に「秋田城介藤原朝臣泰盛」、右側に「為曽祖父藤原盛長入道」と刻まれています。

「為曽祖父藤原盛長入道」の銘が刻まれている

この「秋田城介藤原朝臣泰盛」とは町石プロジェクトの立役者である「安達泰盛」のことです。
この町石は泰盛が安達一族の祖である曾祖父盛長の供養のために建てたものなのです。

そこで、木下氏は曾祖父の供養のために少しでも弘法大師が眠る奥の院に近い場所に建てようとして、泰盛が自らの権力を利用して既に立っていた町石を抜き取って移動させたのではないかと推測しています。

171町石と奥の院側22町石

これと全く同じ構図が描けそうな町石が171町石と奥の院側の22町石です。

171町石 正面には「沙弥念□、生阿弥陀佛」、背面にも「廿二町、沙弥□、生阿□」と刻まれている

171町石にも、正面には「沙弥念□、生阿弥陀佛」、背面にも「廿二町、沙弥□、生阿□」と刻まれています。(□は摩耗によって判読が困難な部分です。)
ですから、これもまた、もとは奥の院側の22町に建っていた町石が慈尊院側の171町に移動してきたことは明らかです。

奥の院側22町石

では、奥の院側の22町には誰が施主となった町石が建っているのかというと「秋田城介藤原朝臣泰盛」と刻まれていて、右側に「為祖父入道秋田城介藤原景盛」と刻まれています。

読みづらいが「為祖父入道秋田城介藤原景盛」と刻まれている

つまりは、これもまた安達泰盛が建立した町石であり、高野入道とも言われた祖父景盛の供養のために建立したものなのです。

木下氏はこれらの事実をもとに、これら二つの町石は鎌倉幕府で強い権力を持っていた安達泰盛によって奥の院側から排除されたと述べているのです。
しかし、この木下氏の考えには少しばかり無理があるような気がします。

確かに、弘法大師が眠る奥の院側に町石を建てたいというのは当時の人の気持ちとしては理解できます。しかし、それでも22町や25町というのは奥の院側において特別な場所だというわけではありません。
ですから、もしも木下氏が指摘するように、権力者が自らの権力を使って町石を抜き取って別の場所に移動させ、その後に自らが施主となって町石を建てたとするならば、その時点で奥の院側には全て町石が建っていたと言うことになります。
100歩譲って、その22町と25町に何らかの意味があったとしても、奥の院側に空きがあれば、その空いたところに移動させるはずです。しかし、それらの町石は奥の院側どころか、171町とか168町という殆ど慈尊院のすぐ近くに移動(?)させられているのです。

そうなると、問題になるのは泰盛が建立した時には、既に奥の院側には全て町石が完成していたかどうかです。
幸いなことに、この二つの町石には建立時期が刻まれています。

泰盛が建てた町石には、ともに「文永五年戊辰閏正月十七日」という銘が刻まれています。

25町石 「文永五年戊辰閏正月十七日」と建立時期が刻まれている
22町石 こちらも「文永五年戊辰閏正月十七日」と刻まれている

覚きょうの勧進活動は文永2年に始まり、その翌年の文永3年2月に最初の町石が立ったことは銘文から確認できます。
奥の院側の23町に建っている町石に「文永三年二月十五日」と刻まれているのがもっとも古いもので、施主は「刑部権少輔大江忠成」と刻まれています。「大江忠成」は幕府の有力御家人の一人です。

ですから、「文永五年戊辰閏正月十七日」と言えばこのプロジェクトで一番最初の町石が建ってから2年足らずしかたっていませ。
ですから、既に建っていた町石を抜き取ったとするならば、わずか2年足らずの間に奥の院側の町石は全て建っていたと言うことになります。

これは考えにくいことだと思うのですが、さらに考えにくいのが慈尊院側166町石と奥の院側20町石の関係です。

166町石と奥の院側20町石

166町石も正面には「比丘尼法如、比丘尼妙因」と施主が刻まれていて、背面にも「比丘尼法如、比丘尼妙因」と刻まれているのです。
ただし、背面には町数は刻まれていないのですが、仏様を表す梵字が「ラン」となっています。「ラン」は166町石に割り当てられた「増長天王」ではなくて、奥の院側20町石に割り当てられた「金剛語菩薩」に該当します。

奥の院側20町石

そして、奥の院側の20町石には施主として「検校法橋覚傳」が刻まれています。「検校」とは高野山の僧侶としてはもっとも高い位なので、この166町石も権力を使って抜き取られて移動させられたと木下氏は述べています。
しかし、こちらは泰盛が建てた奥の院側25町石と22町石よりもさらに無理があります。

何故ならば、奥の院側に建っている20町石には建立時期が「文永四年九月廿一日」と気編まれているからです。。

見づらいですが「文永四年九月廿一日」と建立時期が刻まれています

もしもこの町石が抜き取られた町石だとすると、「文永三年二月十五日」から「文永四年九月廿一日」に至るわずか1年半の間に奥の院側の町石が全て完成したことになります。
さらに言えば、「文永四年九月廿一日」の時点では、少なくとも「文永五年戊辰閏正月十七日」に建立されたことが確実に分かっている22町と25町は空きだったのですから、抜き取ったとすれば22町か25町に移動させたはずです。さらに言えば、そもそも22町と25町が空いている状態で何故にわざわざ20町に建っている町石を抜き取って移動させる必要があるのでしょう。

と言うことで、この背面銘文事件に関する木下氏の推測にはかなりの無理があると言わざるを得ません。

それでは、どうしてこんな事が起こってしまったのでしょうか。


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