醍醐寺(京都 山科)の枝垂れ桜

一つのことを成し遂げた「英雄」が晩節を全うするのは難しいようです。
「英雄」などと言う言葉はあまり好きな言葉ではないのですが、「時代が切り替わる結節点において、その切り替え役を託された人物」くらいに受け取ってみれば、まあ我慢はできます。

例えば、日本の歴史を大雑把に切り分ければ、「古代ー中世ー近世ー近代」と言うことになるのでしょうか。
そこに人物を配置してみれば、古代の中央集権国家を築いたのは、壬申の乱で権力を集約した天武とその妻、持統と言うことになるでしょうか。
古代を終わらせ中世への扉を開いたのは頼朝です。
そして、中世という二重権力構造に終止符を打ったのは秀吉でした。
さらに、この近世に終止符を打って近代の扉を開けたのは大久保であり西郷だったわけです。とりわけ明治という国家の青写真を描いた大久保の功績はあまりにも過小に評価されています。

三宝院入り口の「土牛桜」

当然の事ながら、そう言う切り替えの時期ではなくて、それぞれの時代における絶頂期に活躍した人物はたくさんいます。そう言う人物もまた色々な業績を残しているのですが、例えば古代国家の頂点を演出した道長を「英雄」とよぶと違和感があることは事実です。
ですから、誰かが言ったように「英雄」を持たない時代が「不幸」なのではなく、「英雄」が必要となってしまう「時代」の方が「不幸」なのです。

彼らが「時代を切り替える」という事を成し遂げた後に、その晩節を穢すことなく軟着陸するのは非常に難しいのです。
そして、もっとも目を背けたくなる「晩節」を演じたのが秀吉であり、その汚れた「晩節」の象徴が「醍醐の花見」でした。

霊宝館の枝垂れ桜

樹齢200年と言われる霊宝館の枝垂れ桜。 上と横が切られたようで一回り小さくなったような気がしました。

ですから、桜をめぐって醍醐寺にたどり着くと、その美しさの中に何とも言えない「感情」が常につきまとうのです。

「山高ければ谷深し」とはよく言われる言葉ですが、秀吉ほどこの言葉がピッタリの人物はいません。
彼が最底辺の出自からスタートして、豊臣政権を築き上げるまでの上昇期の素晴らしさは語り尽くされています。そして、その上昇期の秀吉の面目躍如たるイベントが「北野大茶会(きたのだいさのえ)」でした。

茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること。

まさにこれなどは、上昇期秀吉の意気軒昂たる姿が目に見えるようです。

しかし、水平方向に散乱していた「戦国」という時代に終止符を打ち、絶対的な権力のもとに垂直に統合していこうとすれば「出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること」などはあってはならないことなのです。

霊宝館横のソメイヨシノと枝垂桜

「北野大茶会」は明らかに水平方向に散乱していた「戦国」の影を引きずった演出です。当初は10日間が予定されていたのに、僅か1日で終了してしまった原因に関しては色々と論議されてきました。
私は、「戦国」の影を引きずった演出の無理に気づいたがゆえに「北野大茶会」が僅か1日で終了したのではないかと愚考しています。

つまりは、秀吉は「目の前で茶を立てる」様な存在ではなくて、はるかに高みにおいて「仰ぎ見られる」存在でなければならない時代になっていたのです。
これが徳川政権になると、彼らは宮中儀式などを上手く取り入れて巧妙に制度化、様式化してきます。しかし、豊臣政権には、事をそこまで巧妙に洗練化させることはできなかったのです。

醍醐の花見が行われたのは、1598年4月15日(旧暦3月15日)でした。
「北野大茶会」が行われた1587年11月1日(旧暦10月1日)との間には10年を少し超える時が流れるのですが、その間に秀吉は秀次を切腹させ、幼い遺児までを含めて一族を皆殺しにします。
そして、統一政権を完成させると無謀な朝鮮出兵に打って出ます。
とりわけ、朝鮮半島への出兵は膨大な戦費を必要とし、その負担を押しつけられた民衆からは怨嗟の声が巻き起こります。

五重塔奥の枝垂れ桜

その様な無謀な朝鮮出兵が完全に行き詰まり、絶望的な状態に陥る中で行われたのが「醍醐の花見」だったのです。

補給線も絶たれて絶望的な状態で戦っていた朝鮮半島の武将達にこのイベントのことがどれほど正確に伝わっていたのかは分かりません。しかし、耳に届いていたとするならば彼らはどのような思いでその報せを受け取ったことでしょう。
また、「北野大茶会」とは違って、厳重に警護されて近づくことすら許されなかったこの「宴」を京の町衆達はどのような思いで眺めていたことでしょう。

しかし、秀吉はその様なことには一切無頓着に、仰ぎ見られるべき「統一権力のトップ」に相応しい「宴」を計画し、強行していくのです。
秀吉はこの日のために、畿内を中心に僅か10日間で700本の桜を移植させたと伝えられています。
この事は、豊臣政権が地方の中小権力に分割されていた社会を解体して一元的な経済圏を実現させていた事を如実に示しています。そして、その巨大な経済圏を完璧に掌握することで、豊臣政権の存立基盤は揺るぎないものとなっていたのです。

本堂横の枝垂れ桜

おそらく、三成のような怜悧な論理構造から言えば、「醍醐の花見」は豊臣政権が成し遂げたことを広く世に知らしめる上では「正解」だったはずです。
しかし、彼らに欠落していたのは、人には「情」があり、時にはその「情」は「理」を超えてしまうという「人の有り様」に対する認識でした。そこには、人というものの機微を知り尽くした秀吉の姿はどこを探しても見あたりません。

秀吉はこの「醍醐の花見」の後に体調を急速に悪化させ、その半年後にこの世を去ります。
彼の最たる愚行であった鮮出兵の戦後処理も放り出して、ひたすら遺児秀頼の事を「お頼み申す」と懇願し続けて世を去った秀吉の最後はあまりにも哀れです。

桜の美しさは常に変わることはありません。

しかし、その秀吉が世を去り、一夜の夢のように豊臣政権が消え去っても醍醐寺の桜は咲き続け、代を繋いで今も見事な桜を咲かせてくれます。
まさに月並みではありますが、「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」と呟かずにはおれません。

ただ、残念なのは、この僅か数年で京都はすっかり変わってしまったことです。

10年前に始めて醍醐寺を訪れ、その見事な枝垂れ桜に圧倒されたときは、土日でもそれほどの混雑はありませんでした。
今や桜の季節になれば、例え平日でも繁華街のごとき賑わいです。

 

しかし、それも時を経れば再び旧に復することでしょう。
そして、人は変われど、桜は同じように咲き続けることでしょう。

醍醐寺へ

基本的に昨今の京都は車で行くのはやめた方がいいでしょう。駐車場を探すだけで消耗してしまって桜をゆっくり見ているどころではなくなります。地下鉄東西線の醍醐駅を下車して徒歩10分ほどです。
駅から醍醐寺までは綺麗に整備されているので迷うことはないでしょう。駅から醍醐寺までシャトルバスも出ていますがとんでもなく込んでいますから、長い時間待たされてぎゅうぎゅう詰めにされるくらいなら歩いた方がはるかに気持ちがいいです。


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