エーリヒ・クライバー/「薔薇の騎士」より「ワルツ」/ベルリン・フィル

リヒャルト.シュトラウス:歌劇「薔薇の騎士」より「ワルツ」

エーリヒ・クライバー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1934年5月録音

1934年と言えば、まさに「ヒンデミット事件」の渦中に録音されたと言うことになります。
そして、そう言う時代背景があったからでしょう、直線的な音楽作りにスタイルを変えつつあったエーリヒがここでは目一杯に曲線を多用して音楽作りをしています。

「ヒンデミットが退廃的だというならば、どうだ!!
この薔薇の騎士の方がもっと退廃的だろう!!」

と言わんばかりです。
そして、、この退廃的なまでにアンニュイな雰囲気の何という素晴らしさ!!

ヒンデミット事件とは、ユダヤ人との関係が深かったヒンデミットの真作オペラ「画家マチス」の上演をめぐって引き起こされた一連の事件のことを言います。

ヒンデミットは当時のドイツを代表する新進の作曲家であり、帝国音楽院の顧問という地位にも就いていました。しかし、その様な立場にありながら、平気でユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を組んでレコーディングなどを行っていました。
政権の座についたばかりのヒトラーにとっては、ヒンデミットのその様な振る舞いは苦々しさの限りだったのでしょう。
そして、そう言うことを背景として、「画家マチス」の上演をめぐって事件は引き起こされます。

この「画家マチス」は、まずはこのオペラをもとに構成された交響曲「画家マチス」としてフルトヴェングラー&ベルリンフィルによって初演が為されました。そして、フルトヴェングラーはその初演の成功に力を得て、続けてオペラの初演に取り組みはじめます。
そこに割り込んできたのが政権の座についたばかりのナチスであり、ヒンデミットの音楽が退廃的であるとして上演禁止を通達してきます。

驚いたのはフルトヴェングラーであり、ナチスによるヒンデミットの排斥は根拠のない言いがかりであり、いかなる理由であれヒンデミットのような才能ある作曲家をドイツから閉め出すことはゆるされないという内容の文章を新聞に発表します。その文章のタイトルが「ヒンデミット事件」とされていたので、この一連の出来事もまた「ヒンデミット事件」と呼ばれるようになるのです。

この事件は結果的にはヒンデミットのトルコへの亡命するという形で決着します。
さらには全ての公職から追放されたフルトヴェングラーもまたその翌年にはナチスと和解して再びベルリンフィルの指揮台に復帰します。

このフルトヴェングラーとナチスの和解の価値判断は難しいのですが、当時の人々はフルトヴェングラーがナチスに屈服したと思ったことは事実です。もちろん、そこには様々な思惑は交錯していて、事はそれほど単純でなかったことは事実なのでしょうが、ナチスにしてみれば世間の多くがフルトヴェングラーが「屈服した」と思ってもらえたならば、政治的にはそれだけで大成功だったことでしょう。

何故ならば、その時にヒンデミットとともにドイツを去った人物がいたからでした。それが、ベルリン国立歌劇場のシェフだったエーリヒ・クライバーでした。
歴史に「if」はないのですが、その時にフルトヴェングラーも同様にドイツを去っていればナチスの文化政策にとっては大打撃となっていたことは間違いありません。
そして、ナチス政権下におけるドイツの文化的相貌も、さらには戦後の文化的相貌も大きく異なったはずなのです。


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