モーツァルト:「後宮からの逃走」K.384 序曲
ラファエル・クーベリック指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年録音
「後宮からの誘拐」は序曲と3幕からなるジングシュピールです。
当時のウィーンではヨーゼフ2世の肝いりで、「ドイツ語によるオペラ」という「ドイツ国民劇場」構想が積極的に推進されていました。
モーツァルトもその動きに乗ってチャンスをつかもうとして書かれたのがドイツ語劇「ツァイーデ」でした。
しかし、台本作家であるシュテファニーから、よりウィーンの聴衆に向いている台本として「後宮からの誘拐」が提示されます。
モーツァルトもその提案に納得したのか、かなりの部分が出来上がっていたにもかかわらず「ツァイーデ」は破棄され、新たにシュテファニーの台本に基づく「後宮からの誘拐」に取り組むことになります。
ただし、結果から言えば、このオペラの完成には大変な苦労を強いられます。
さらに、なんとかウイーンのブルク劇場での初演にこぎ着け、そこでは絶大なる喝采を浴びたにもかかわらず、「ドイツ語によるオペラ」とい構想が終わりを告げたためにモーツァルトはそこから現世的成功を得ることはできませんでした。
ある意味では「くたびれもうけ」もいいところだったのですが、それでもその労苦はモーツァルトを飛躍させました。
ここで問題となるのは、完成のために強いられた「苦労」の内実です。
実際、モーツァルトが完成に至るまでに、これほどの時間を要したオペラは他にはありません。さらに、その自筆スコアを見てみれば、削除、短縮、変更に満ちているのです。
その背景には、このオペラが求められていたロシア大公の歓迎式典が先延ばしされた事があげられます。
当初はリハーサルまでに1ヶ月ほどしかないというスケジュールで取り組まれ、モーツァルトもそのつもりで筆を走らせていたのですが、その大公の訪問が急遽延期されたのです。
さらには、その延期された式典でもモーツァルトのオペラではなくてグルックのオペラが選ばれたために、さらにモーツァルトは締め切りを気にする必要がなくなってしまったのです。
ただし、その式典でグルックのオペラが選ばれることはモーツァルトも折り込み済みだったようで、それほどがっかりすることもなく、さらに時間をかけて「オペラ」という表現形式と向き合うことが出来たわけです。
さらに言えば、この時期コンスタンツェとの結婚を巡って父親との諍いが発生しいて、その怒りを静めるために「画期的な作品」を生み出す必要にも迫られていたことも指摘されています。
そんな事が理由になって音楽史を塗り替えるような作品が生まれるものかと思うのですが、それが出来てしまうところがモーツァルトのモーツァルトたる所以なのでしょう。
驚くなかれ、このオペラはモーツァルトの創作活動の分水嶺となっただけでなく、音楽の歴史の上でも大きな転換点にしてしまったのです。
音楽学者のランドンはこの作品を取り上げて「オペラの構造を革命的に変えてしまったのは、グルックではなくモーツァルトである」と絶賛しているのです。
彼らが新しさに眼を見張ったのは、その総譜の豊かさであった。 良くできたオーケストレーションや管楽器の思い切った起用、「トルコの楽器」の特別な使い方などが光っていた。 そのため、たとえ台本が二流であったとしても、音楽には人の耳をとらえるものがあり、あまりにも美しく、かつオリジナルにできあがっていたので、これまでにオペラを知っており、耳もある人たちは、モーツァルトがドイツ・オペラの形式について、新しい道を見出したと思ったに違いない。(ランドン)