モーツァルト:ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 K.287
(Vn)ヨーゼフ・シゲティ マックス・ゴバーマン指揮 オーケストラ不詳 1938年録音
何とも定義が曖昧な言葉なのですが、クラシック音楽の世界では「精神性」という言葉がよく使われます。
ただし、この言葉は「広辞苑」を引いても出てきません。
私がよく使っている講談社の「日本語大辞典」にも載っていないのですが、「精神」という言葉に対して「物事の根本となる大切な意義、思想、目的」という意味が与えられています。
と言うことは、クラシック音楽でよく使われる「精神性の高い演奏」というのは「作品の根本となる思想を大切にした演奏」と言っていいのかも知れません。
ただし、そう言ったからとして、例えばシゲティのバッハの無伴奏の演奏を聞いたときに、それがバッハ作品の思想を大切にしているかどうかは誰が担保するのかと言うことになります。
一昔前なら、偉い評論家の先生が「高い」と言えばそれで「高い」事を担保したのでしょうが、今時そののような事大主義が通用するはずもありません。
一声、誰かが「王様は裸だ!」と叫べば、こぞってみんなが「裸だ!」と叫び立てるだけです。
何しろ、一昔前の偉い評論家先生というのは、聞く人の耳に心地よく、美しく響く演奏に対して「精神性」が高いと言うことは殆どなくて、逆に鋸の目立てのような音でキコキコ演奏すると「精神性が高い演奏」だと言う傾向があることは否定できなかったのですから、ひねくれ者でない限り「王様は裸だ」と言いたくもなろうかというものです。
ただし、「精神性」の高さでは抜きんでていたシゲティも、若い頃からキコキコとヴァイオリンを弾いていたわけでないことは、こういう演奏を聞けばよく分かります。
指揮者は、後にブロードウェイに転出して大成功をおさめることになるマックス・ゴバーマンで、オーケストラも不詳という、とても楽しい組み合わせです。
こう言うのを聞くと精神性などはいらないので、このまま楽しい音楽を届けてくれる人で居続けてくれればよかったのに・・・等と、怪しからぬ事を考えてしまいます。(^^v