メニューヒン/メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

(Vn)イェフディ・メニューイン ジョルジュ・エネスコ指揮 コロンヌ管弦楽団 1938年5月2日録音

「神童」という言葉は安易に使われることが多いのですが、その言葉を額面通りに受け取ってよい希有な存在の一人がこのメニューヒンでした。
かれは、ジョルジュ・エネスコに師事するためにパリに移り住み、「神童」が二十歳を過ぎたら「只の人」になってしまわないように一歩踏み出します。
そして、エネスコもまたその才能に惚れ込んで支援を惜しまなかったのです。

エネスコはメニューヒンをさらに成長させるために、それほど得意とは言えない指揮を買って出て、1931年に解説されたロンドンのアビー・ロード・スタジオで多くの録音を残すことになります。そして、それが「神童」としての輝きを今に伝える貴重な記録となったことは皮肉ではあったのですが、それでも、メニューヒンはこの輝きを背負いながら残された音楽家としての人生を真摯に歩み続けたのです。

確かに、メニューヒンは「神童」から抜け出して大人の「芸術家」になるために大変な苦労をしました。
人によっては幼い時期の基礎訓練が足りなかったために大人になるにつれて駄目になったという人もいます。例えば、このメンデルスゾーンのコンチェルトは戦後にも何度か録音を残していますが、シビアに見ればこの若い時代の録音がベストかもしれません。
これが、SP盤の時代にはメンコンの決定盤だとされていたのは消して間違いではなかったのです。

しかし、音楽に全人格を傾けて取り組む姿勢をエネスコから学ぶことで、その生涯を振り返ってみればやはり偉大な音楽家であったと蓋棺録に記される存在となり得たことも事実です。