(8) ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「和声と創意への試み」より「四季」 作品8

独奏協奏曲という形式の生みの親

ヴィヴァルディの「四季」は立ち位置が微妙です。
クラシック音楽のレコードでもっとも売れたのはイ・ムジチの「四季」だと言われています。

Vivaldiしかし、イ・ムジチの「四季」が自分のコレクションの棚に並んでいることは許せないという人は少なくなりません。
何千枚というCDやレコードが並んでいるにもかかわらず、そこに「四季」は並んでいないのが一種のプライドだと言う人も存在します。
さらに言えば、作品名を口にするのも穢らわしいので「ヴィヴァルディのあの作品と記す」と明記してある個人のブログすら存在します。

つまりは、多くの人に愛されながら、コアなクラシックファンからは忌み嫌われるという不思議な属性を持っているです。
しかしながら、音楽史の中で見直してみると、つまらぬプライドやスノッブな自惚れなんかは吹っ飛ばしてしまうほどのインパクトを「四季」は持っています。

そのインパクトとは、コレッリが仕上げた「合奏協奏曲」という形式をさらに一歩前に進めて「独奏協奏曲」という形式を生み出し、その形式の素晴らしさを誰の耳にも分かる形ではっきりと証明して見せたことです。

合奏協奏曲という形式では、独奏者も弦楽合奏の中に座っていますから、見ただけでは誰が独奏者なのかは分かりません。
弦楽合奏の演奏が終わると、やおらその中のメンバーが独奏パートの演奏をはじめるので、その時にはじめて彼らが独奏者だったことが分かります。そして、再び弦楽合奏のパートが始まれば、彼ら独奏者もまた弦楽合奏のメンバーとして演奏に参加します。
合奏協奏曲における独奏者(ソリスト)というのは、弦楽合奏の中の特別な一人という域を出ないのです。

ヴィヴァルディはこの形式をさらに一歩進めて、弦楽合奏のメンバー以外に一人のヴァイオリンの名手を用意して、その一人の独奏者が弦楽合奏全体と対峙する形式を作り出しました。
このような形式のことを「合奏協奏曲」と区別をするために「独奏協奏曲」と呼ぶのですが、今日では「協奏曲」と言えばこの「独奏協奏曲」のことを意味するようになっています。

そして、ヴィヴァルディが「合奏協奏曲」から「独奏協奏曲」へと歩みを進める上でインスピレーションを与えたのが、オペラのアリアであったことは容易に推測できます。
ヴィヴァルディが活躍した17世紀から18世紀にかけてのヴェネチアはオペラの街でした。オーケストラをバックに華麗な歌声を聞かせる歌手こそがこの時代のスターであり、その華やかさは官能的なカーニヴァルの街であるヴェネチアにピッタリでした。
ヴィヴァルディはこのオペラ歌手のポジションに独奏ヴァイオリンを持ってきても、同じような官能性と華やかさが実現できることを証明して見せたのです。

ただし、ここで一つの問題が浮上してきます。
それは、弦楽合奏と同じ音色のたった1挺の独奏ヴァイオリンが弦楽合奏に対して自己主張することの難しさです。

確かに、独奏ヴァイオリンが登場するときに弦楽合奏が沈黙するならば問題はありません。
コレッリの合奏協奏曲という形式は、もともとが音楽に強弱のコントラストを無理なく実現するための手段でした。華やかで音量の大きな総奏(リピエーノ)に対して比較的音量が小さくなる独奏楽器(コンチェルティーノ)を配置することで、結果として無理なく強弱というコントラストを音楽にもたらしたのです。
合奏協奏曲では総奏に当たる弦楽合奏と、独奏楽器群は交替しながら演奏するのが基本でした。

しかし、ヴィヴァルディの生み出した「独奏協奏曲」という形式では弦楽合奏とヴァイオリンの独奏が行儀よく交替するだけではなく、時には独奏ヴァイオリンは弦楽合奏をバックにそれを突き抜けていく強さが求められます。
もちろん、独奏ヴァイオリンが登場すれば弦楽合奏は多少は寡黙にはなりますが、それでも完全に沈黙してしまうわけではありません。

この問題は、時代が下がってオケの規模が大きくなり、それに合わせて演奏会場も大きくなっていくとより深刻な問題になっていきます。どんどん分厚く、巨大になっていくオーケストラの響きを向こうに回して、たった1挺のヴァイオリンでそれを突き抜けて自己主張していく必要があるのです。

そして、この問題を解決する方法は一つしかないことにソリスト達はすぐに気づきます。
それは、弦楽合奏の中においても、その響きの中に埋もれることなく、その上をさらに突き抜けていけるような「特別なヴァイオリン」を手に入れるしかないという事実です。

ここから「ストラディヴァリウスの伝説」が始まります。

オケのヴァイオリニストにとって、ストラディヴァリウスのような「特別なヴァイオリン」は無用の長物です。
それが必要なのは、分厚くて巨大なオケの響きを向こうに回して一人で奮戦しなければいけないソリスト達だったのです。

オールドヴァイオリンの真価

「ヴァイオリンの神話に疑問符?」なんて言う研究論文がよく発表されます。
最近も、フランスの科学者が「何億円もすることで有名なバイオリンの名器『ストラディバリウス』や『ガルネリ』は、現代のバイオリンと 大差ないとする意外な実験結果」を発表して少なからず話題となりました。

その実験とは、「ガルネリ」や「ストラディバリウス」という名器と、現在の最高級器を21人の経験を積んだヴァイオリニスに演奏してもらって、どれが一番好ましいかを比較してもらうというものだったようです。
そして、その結果として以下の4点が明らかになったとされています。

  1. 最も好まれたヴァイオリンは新しいものだった。
  2. 最も好まれなかったのは「ストラディバリウス」だった。
  3. 制作年代や金銭的な価値と、実際に聞き取れた音質との間には不十分な相関関係しか見いだせなかった。
  4. ほとんどの演奏家は自分が好ましいと思った楽器が古いものか新しいものかを判断できいないように見えた。

今さら言うまでもないことですが、この実験には幾つかの問題点があります。
1716 Messiah Stradivarius
Stradivari-1716-Messiah
一つは、経験を積んだとされるヴァイオリニストの経験の質が明らかでないこと、二つめにには、実験に使用したオールドヴァイオリンの出自が明らかにされていないこと、最後に、これが最も肝心なのですが、実験を行った場所が残響の少ないデッドな部屋だった事です。

オールドヴァイオリンを弾きこんできた経験のない、もしくは少ないヴァイオリニストにとって、「ストラディバリウス」は演奏しやすい楽器ではありません。また、「ストラディバリウス」はオールドヴァイオリンの中でも特別に気難しくて、長い間お蔵にしまい込まれていたならば、それがまともに鳴るようになるまでにはかなりの時間が必要となります。「ガルネリ」は「ストラディヴァリウス」ほどではないにしても、それでも御しにくく頑固な楽器であることは間違いありません。

また、「ストラディバリウス」や「ガルネリ」は、コンサートホールのような充分な容積と残響のある空間で鳴り響いた時にこそ本領を発揮します。分厚い弦楽合奏の響きの上を突き抜けていく時にこそその「持ち味」を発揮します。
「残響の少ないデッドな部屋」で実験するというのは、車にたとえれば、入り組んだ細い路地でF1マシンを走らせて、「一般的な大衆車の方がよく走るな!」といっているようなものです。

忘れていけないのは、その様な高価なオールドヴァイオリンが必要になるのは、弦楽合奏の響きに埋もれることなく、その上をさらに突き抜けていけるような響きが欲しいソリスト達だと言う事実です。
彼らはヴィヴァルディが「独奏協奏曲」という形式を生み出したときから、運命的に一人でオーケストラと対峙することを求められました。その時に、彼らの支えとなってくれるたのが「ストラディバリウス」や「ガルネリ」などの特別なヴァイオリンだったのです。

独奏協奏曲の拡大と継承

コレッリの合奏協奏曲における独奏者は弦楽合奏の中における「特別な一人」でしたが、ヴィヴァルディの独奏協奏曲が登場することで、ヴァイオリンの独奏者もオペラ歌手に匹敵するようなスターになりました。
そして、その事によって、ヴァイオリンもまた独奏楽器の一つというポジションから一気に「楽器の女王」へと飛躍していきました。特に、美しい旋律をなぞるには最適な楽器ですから、まさに「女王」に相応しい特質を持っていたわけです。

繰り返しになりますが、この部分におけるヴィヴァルディの功績は途轍もなく大きなものがあります。
併せて、音楽の流れも「緩 – 急 – 緩」が基本だった合奏協奏曲に対して、独奏協奏曲では「急 – 緩 – 急」の方がしっくりいくことを発見したのも彼でした。そして、この「急 – 緩 – 急」という協奏曲のスタイルは古典派からロマン派に至るまでほぼ踏襲されることになるのです。

さらに、ヴィヴァルディのもう一つの功績は、この独奏楽器の地位をヴァイオリン以外の楽器にも開放したことでした。
出版された楽譜としてはフルート(フラウト・トラヴェルソ)協奏曲だけですが、それ以外にもチェロやヴィオラ・ダモーレなどの弦楽器、オーボエやファゴット、リコーダーなどの木管楽器、さらにはチェンバロやマンドリンなどにもその可能性を広げていきました。もちろん、その様な試みが、楽器の女王であるヴァイオリンほどに上手くいっているかに関しては色々議論はあるでしょうが、それでも、彼の果敢なチャレンジこそが後の時代の様々な「協奏曲」の原型になったことは疑いもない事実です。

ヴィヴァルディはコレッリと違って有力なパトロンを持ちませんでした。
彼は「赤毛の司祭」と呼ばれるように聖職者でもあったのですが、本職は自分で音楽を作曲し、その音楽を演奏して客を呼ぶことで生計を成り立たせていた興業屋でした。
ですから、彼はコレッリとは対照的に多作であり、「写譜屋が写譜を行っている間に、協奏曲の全パートを作曲できる」と豪語するほどの速筆だったようです。それもまた、興業で生計を立てる身であれば当然の事だったのでしょう。

そして、その興業が上手くいっている時はかなりの財産を築いたようなのですが、ひとたび戦争などが始まって世間が音楽どころでなくなるとあっという間に莫大な借金を抱え込んでしまいました。

当時の興業は、出演者のギャラから舞台装置、さらには劇場の使用料から宣伝費用に至るまでの一切を興行主が負担するのが一般的でした。そして、興業が終わればその上がりの中から一切の必要経費を支払い、その残りが興行主の取り分となりました。
興業が成功すれば莫大な利益が転がり込むのですが、予定していた興業が何かの理由で中止などということになれば莫大な損害が発生することにもなるのです。

ヴィヴァルディもまた10数回の興業を成功させた後に、たった1回の失敗で窮地に立たされることになりました。そして、もう一勝負をかけたウィーンでの興業も上手くいかず、全ての財産を失うだけでなく莫大な借金を抱え込んでしまって、最後は生まれ故郷のヴェネチアに帰ることも適わず異境の地で最期を迎えることになりました。
まさに、コレッリの静謐で満たされた一生と較べれば、この上もなく波瀾万丈な人生だったのです。

そして、不思議なことに、このような画期的なチャレンジを成し遂げたヴィヴァルディの音楽は、彼の死とともに急速に忘れ去られていきました。
彼はその生涯において500曲に近い協奏曲を生み出し、100に近いオペラやカンターを生み出したのですが、そのほとんど全てが忘れ去られてしまったのです。

しかし、この忘れ去られてしまったように見えたヴィヴァルディのチャレンジは意外な場所で偉大な後継者を見いだします。
何と、彼の音楽は官能の街ヴェネチアからアルプスを越え、禁欲的なプロテスタントの地である北ドイツで偉大な後継者を見いだすのです。それが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハでした。

バッハという人は不思議な音楽です。
彼は何一つ新しいものを生み出しはしませんでした。
しかし、彼以前の音楽家が試みた新しいチャレンジを受け入れて、それが意味あるものであれば、その試みを想像もしなかったほどの精緻さでもって完成させました。

それ故に、バッハは小川ではなく大海だと言われるのです。
ヴァイオリンとヴァイオリンのための音楽はヨーロッパアルプスを越えて、さらなる高みへと引き上げられることになるのです。

(Vn)シュナイダーハン バウムガルトナー指揮 ルツェルン音楽祭弦楽合奏団 1959年10月録音

普通ならば、イ・ムジチ合奏団による1958年から1959年にかけて録音された演奏を紹介するのが一般的でしょう。あの演奏こそは、ヴィヴァルディが活躍した官能の街ヴェネチアに最も相応しいものです。

分厚くて豊満な弦楽器の何という美しさ。
艶やかでいながら、官能性をたたえた歌いまわしの何という素晴らしさ。

しかし、その演奏はあまりにも有名になりすぎていて、何もここで紹介をする必要はないように思えます。

ならば、どうせなら、そう言うイ・ムジチとは正反対の、まるでバッハのように響くヴィヴァルディ演奏を紹介したほうがいいでしょう。このシュナイダーハンの演奏は明らかに「アルプスの北側の音楽」になっています。

それから、こんな事を書くとイ・ムジチ盤でソリストを務めているアーヨに対して失礼なのですが、シュナイダーハンはヴァイオリニストとしての格が全く違うことを思い知らされます。
おそらく、これほど堂々として立派なヴィヴァルディというのはそうそう聞けるものではありません。

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