ピアノ音楽の歴史を概観すると、リストはその一つの頂点に立つ存在でした。実際、ピアノがこの世に登場した18世紀から19世紀にかけて積み重ねられてきた可能性の追求はリストによって集約されました。そして、リスト以降もまた、リストを源流としていくつもの流れが生み出されていくことになります。
その意味では、19世紀ロマン派の音楽家が作り出したピアノ音楽は、基本的には全てリストの手の中にあったといえます。
もちろん、こんな書き方をしたからといって、ブラームスやフォーレや、その他多くのロマン派の音楽家が生み出したピアノ音楽がリストの作品に劣ると言っているわけではありません。そうではなくて、彼らはリストが見なかった世界を切り開いたことは間違いないのですが、それでも源流をたどればリストに行き着くのであり、リストが切り開いたピアノの世界に根本的な変革をもたらすものではなかったと言うことです。
ですから、クラシック音楽の世界をわずか50曲で概観しようというこの試みにおいては、その様な支流をたどっている余裕はなく、リストの次の流れにジャンプせざるを得ません。
つまりは、リストが切り開いたピアノの世界に根本的な変革をもたらした二人の音楽家、ドビュッシーとプロコフィエフに飛ばざるを得ないのです。
ピアノにはハンマーがない?
しかし、リストとショパンが対照的であったように、ドビュッシーとプロコフィエフも対照的でした。
ドッビュッシーが切り開いたピアノの世界は、一言で言えば、ピアノにはハンマーがないかのように音楽を響かせることでした。
その秘密は、機能和声の世界から「さようなら」をしたことです。
伝えられるところによると、ドビュッシーのピアノの腕前はお世辞にも上手いとは言えなかったそうです。しかし、そうだったからこそ、辛抱強くピアノの鍵盤を叩きながらいろいろな響きを吟味するという辛抱ができたのかもしれません。
では機能和声の世界とは何かと言えば、いわゆるコード進行のある音楽だと言い切って良いでしょう。(言い切って良いのか?^^;)
もっと分かりやすく言えば、コード進行に従って音楽を作れば、今ではパソコンが音楽を作ってくれます。コード進行には幾つかの有効なパターンがありますから、鼻歌でメロディを入力すればパソコンがそれなりの音楽に仕上げてくれます。
19世紀の名人芸披露型のピアニスト兼作曲家が生み出した音楽の大部分は、そう言うレベルの音楽と大差がなかったようです。
当然のことながら、リストやショパン、そしてシューマンなどはそう言う単純で陳腐な進行ではなくて、とんでもなく遠い場所(遠隔調)へポーンと転調したりして可能性を広げていきました。ワーグナーなんかは自分の家(主調)が何処にあるのかが不明瞭になるくらいに転調を繰り返して、今まで誰も聞いたことがないような世界を探求しました。
しかし、それでも彼らの音楽は、機能和声の世界に収まっていました。
しかし、ドビュッシーはそう言う道は捨てて、自分の耳だけを信じて誰も聞かなかった響きの世界を発見しました。
彼は機能和声の世界では絶対にやってはいけないとされているコード進行でも、自分の耳で聞いて「美しい」と思えば、それを採用することに躊躇いはありませんでした。
例えば、「版画」の第1曲では冒頭から嬰ト音と嬰へ音が同時に鳴り響きます。これは古典的な和声学では絶対にやってはいけないとされる「平行1度」です。
ドビュッシーの作り出す響きは、音楽全体の中で何らかの役目を負わされることはなくなり、音楽は機能和声の緊張感から解放されて茫洋とした世界が広がることになります。
(P)フェルベール 1954年3月11~13日録音
ショパンはピアノで詩を語ることが可能であることを見いだしました。
ドビュッシーのピアノが紡ぎ出す響きは全体の物語からは切り離されて詩を語ることをやめ、その純粋な響きはイリュージョンに昇華したのです。
しかし、ロマン派の音楽においてショパンが真の継承者を持たなかったように、ドビュッシーも20世紀の音楽において後継者を持ちませんでした。その音楽は明らかに一つの行き止まりとなったのです。
ピアノとはハンマーである!!
プロコフィエフはドビュッシーと違って、自らも偉大なピアニストでした。
そして、彼が見いだした新しい世界はドビュッシーとは真逆の世界、すなわちピアノの弦をハンマーで打楽器のように叩きつけることで生まれる世界でした。
ドビュッシーはピアノにはハンマーがないかのように演奏することを求めたのですが、プロコフィエフはピアノをハンマーで打楽器のように演奏することを求めました。
そう言う意味では、この二人の音楽は真逆のように見えるのですが、視点を変えれば、ともに「反ロマン主義」という点では一致していました。
彼らはともにリストに背を向けて蹴飛ばしたのです。ただ、その蹴飛ばし方がドビュッシーは上品だったのに対して、プロコフィエフは力の限り蹴っ飛ばしてしまったのです。
そして、その蹴飛ばし方があまりにも乱暴だったために、当時の保守的な聴衆からはなかなか受け入れてもらえませんでした。口の悪い連中は彼の音楽を「鍛冶屋」「不協和音のお祭り」などと批判しました。しかし、保守的な聴衆は彼の音楽を拒否しても新しい音楽を模索していた同時代の若い音楽家はこの方法論に飛びつきました。
そして、20世紀のピアノ音楽は、基本的にはこの方向で進んでいくことになり、その中でもバルトークが最も上手にこの方法論を取り入れて素晴らしい成果を上げました。
ピアノを打楽器的に扱って最も成功しているのはバルトークの最初の二つのピアノ協奏曲(ピアノ協奏曲 第1番 Sz.83/ピアノ協奏曲第2番 Sz.95)でしょう。さらに、彼の「ミクロコスモス」はそう言う新しいピアノ演奏の可能性を体系的にまとめた作品集だと言えます。
しかし、この流れは、やがてはピアノを指で叩くだけでは我慢できなくなる連中が登場してきて、肘や拳でぶん殴り、さらにはそれでも足りずに細長い板で鍵盤をたたきのめすという「トーン・クラスター」へと導かれていきます。そして、現在のコンサートグランドという怪物は、その様な仕打ちを受けてもびくともしないほどの強靱さを身につけたのです。
そして、その後のことはもう何もふれたくありません!!
しかし、そうなった責任は決してプロコフィエフにあるわけではありません。
その事は、彼のピアノ音楽の中で最も演奏機会の多い「ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 Op.83 “戦争ソナタ”」あたりを聞けば容易に納得できます。確かにロマン派の音楽ほど愛想が良いとは言えませんが、じっくりと言い分を聞いてやればこいつもまた実にいい奴なのです。
ホロヴィッツ 1945年9月22日&10月6録音
ホロヴィッツはルービンシュタインと並んで、19世紀的なロマン派ピアニストの生き残りでした。そして、全盛期のホロヴィッツは、ピアノ演奏の長い歴史において最高のテクニックを持ったピアニストでした。
プロコフィエフが要求するようにピアノを打楽器的に扱いながら、これほどクリアな響きを維持して突進していくなんて、まさに悪魔の技としか思えません。
もしかしたら、彼は鍵盤を叩きつけることなくプロコフィエフが望んだような響きを出すことができた、おそらく唯一のピアニストだったのかもしれません。
そう考えれば、誰も理想的には演奏できないという点で、これもまた一つの行き止まりの音楽だったのかもしれません。
1 comment for “(4) ドッビュッシー:「版画」&プロコフィエフ:「戦争ソナタ」”